[第41話]謙信は「馬鹿者」がお好き?書状から紐解く人物像

 私たちが思い描く戦国武将像は、江戸時代以降につくられたものもあり、実像から離れている可能性も否定できません。戦国期に書かれた彼らの書状は、より実像に迫る素材でもあります。当館所蔵の「上杉謙信書状」(以下「謙信書状」)を使って、越後を代表する戦国武将の人物像を紐解いてみたいと思います。キーワードは「馬鹿者」です。

 「謙信書状」は、元亀げんき2年(1571)に上野厩橋こうずけまやばし(群馬県前橋市)城主北条高広きたじょうたかひろに送ったもので、前半部が欠けて全容は不明ですが、北条ほうじょう氏との関係について書かれたもののようです。書状が書かれた頃、対武田信玄戦略として永禄12年(1569)に成立した上杉謙信と北条氏康ほうじょううじやす氏政うじまさによる「越相同盟」(注1)の破綻が既定事実になっていました。同盟の推進者であった氏康(氏政の父)がこの世を去り、氏政がこの同盟に当初から批判的であったからです。

 書状の中で謙信は、「如此かくのごとき馬鹿者ばかもの兼而存知候てかねてぞんじそうろうて」と北条ほうじょう氏政を罵倒しています。さらに「何も之馬鹿你無申事候なにものばかともうすことなくそうろう」とあり、再度「馬鹿」呼ばわりしています。謙信が氏政に対して、厳しい評価をしていること、憤慨していることが読み取れます。

 「馬鹿者」という表現は古文書の中ではあまり使われていないようですが、謙信はその表現を「謙信書状」で2度使い、別の3通の書状でも使っています。この表現を時折使う彼の性格は、自分の感情を率直に出す直情型、短気といえそうです。これらの書状は、全て謙信40歳代のものですので、若気の至りとはいえません。

 「謙信書状」の送り先である北条きたじょう高広は、謙信を2度裏切っています。ある書状で謙信は、2度目の裏切りで北条ほうじょう方についた彼の行為を「天魔之所業」と断罪する一方で、信頼していた武将に裏切られて「失面目候めんもくうしないそうろう」と嘆いています。「謙信書状」中では「後悔ニ候」と同盟を結んでいたことへの愚痴もこぼしています。自分自身に対しては「ばかもの」(注2)と自虐的に使った書状もあります。これらからは、怒りっぽい反面、その弱さをちらつかせる人間味のある一面も読み取れます。

 北条きたじょう高広は、「越相同盟」成立後に上杉方に復帰して、関東方面での謙信の拠点である厩橋まやばし城主として活躍しました。氏政に対して「馬鹿者」という厳しい表現を用いることで、高広が再度裏切らないように牽制したと考えると、謙信の書状を利用した巧みな人心掌握術が推測できます。

 「文は人なり」ともいいます。文章は書き手の人柄を映し出すというたとえです。「馬鹿者」をはばからず使った謙信の人となり、皆さんはどのように思いますか。

(注1)両者の本拠地である越後、相模の頭文字にちなんでこの同盟をこのように呼ぶことがある。
(注2)原文のまま。この書状では仮名表記。

上杉謙信書状の画像
【上杉謙信書状】(請求記号E9130-2)
注意:原本は軸装されているので、閲覧は複製になります。